東奈良名張

街道ウォーク

はるか神話の時代から、天皇も武士も庶民も、自分の足で歩いた街道。

先人たちが旅した道を歩き、町並みを訪ねれば、知らなかった景色が広がります。いにしえに想いを巡らせながら、歴史ウォーキングを楽しみませんか?

奈良県と三重県の二市四村からなる東奈良名張エリアには、大和と伊勢を結ぶ旧街道が通っています。北から「初瀬街道」「伊勢本街道」「伊勢南街道」の3つで、古来、多くの旅人が行き交ってきました。古墳時代から江戸時代まで、徒歩や馬で伊勢や大和をめざした人々。街道沿いには、さまざまな難所を苦労して越えた人々の足跡や、伊勢参りの人々が集まる宿場の賑わい、時代に翻弄された人々の物語などが刻まれています。時代の移ろいとともに街道の風景は変わりましたが、東奈良名張エリアは今なお豊かな自然と歴史文化が受け継がれている地。昔のリズムで街道を歩けば、時空を越えて当時の人々の息づかいを感じ、歴史ロマンを感じる風景に出会えるはずです。

伊勢本街道

大和と伊勢神宮を結ぶ、伊勢本街道。古代、天照大神の鎮座の場所を求め、倭姫命が旅した道とも重なり、各地に伝承が残っています。そのため「神の御心に叶う道」として多くの参詣者に利用され、参宮本街道の名でも呼ばれてきました。南北朝以後、伊勢の国司・北畠氏が上多気(現在の津市美杉町)に本拠を構えたことを機に、伊勢本街道は奈良や吉野への道として整備され、さらに多くの人々に利用されるようになります。一方で、伊勢神宮への最短ルートである反面、険しい峠を越えたり、川を渡ったりと難所が多いことでも知られました。国文学者・本居宣長も大和の旅の帰りに伊勢本街道を通ったとき、大変な苦労をしたことをその日記につづっています。

東奈良名張エリアでは、奈良県宇陀市、奈良県曽爾村、奈良県御杖村が街道上に位置します。途中にはいくつもの峠があり、急坂で馬の鞍が取れてしまったという伝説から名づけられた街道屈指の難所、鞍取峠も。古い町並みの残る街道沿いには、旧宿場町の道標や常夜燈も立ち、かつての趣きを今に伝えています。


初瀬街道

京・大和と伊勢を結ぶ、初瀬街道。現在の国道165号線沿いの道で、松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至ることから名づけられました。名張の青山峠を越えるため「青越え伊勢街道」の別名もあります。その歴史は古く、壬申の乱(672年)の際に、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野から宇陀を経て名張に至った道として知られます。また、天武天皇の娘である大来皇女も、伊勢神宮の天照大神に仕える初代斎王としてこの道を通って伊勢に赴きました。以来、歴代の斎王が大和と伊勢を往来したため「斎王上路」とも呼ばれます。江戸時代中期からは、伊勢参りや長谷観音に参る初瀬詣でが盛んになり、街道沿いには多くの宿場町がつくられるなど明治初期にいたるまでおおいに賑わいを見せました。

東奈良名張エリアでは、奈良県宇陀市、三重県名張市が街道上に位置し、さまざまな名所旧跡や宿場町として栄えた昔の街並みが残されています。


伊勢南街道

紀州から大和に入り高見峠を越えて現在の三重県松阪市へ至る、伊勢南街道。塩や米、魚を運ぶ交易路として重要な役割を果たしたほか、伊勢や熊野、吉野などに詣でる多くの旅人で賑わいました。また、江戸時代には紀州藩が参勤交代で使用し、多くの藩士がこの街道を行き来しました。その全長は約180kmにおよび、別名「和歌山街道」「紀州街道」「大和街道」とも呼ばれます。街道最大の難所は、奈良と三重の県境にある高見峠。標高1,249mの高見山を越えるもので、現在は登山道が整備されています。  

東奈良名張エリアでは、吉野郡東吉野村が街道上に位置します。村内には高見山の登山口があるほか、明治維新に関連する碑や街道の道標が建ち、歴史の変遷を静かに教えてくれています。


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三街道から足をのばして

山添村のもう一つの道

山添村には、弘法大師が杖でたたくと塩水が湧き出たという昔話が伝わる「大師の硯石」があります。近くには鎌倉時代の作とされる塩瀬地蔵があり、その前の道は、奈良と伊勢を結ぶ街道の一つとして、人と物が盛んに行き来していたようで、江戸時代には伊勢神宮に参拝する「おかげ参り」の人々も通ったものと思われます。

硯石のある神野山(こうのやま)は奈良県立月ヶ瀬神野山自然公園に指定されており、星空観賞やアウトドアが楽しめる「フォレストパーク神野山」として人気です。大小の黒い岩が連なり不思議な景観を描く渓谷(鍋倉渓)や羊の牧場(めえめえ牧場)などが広がり、のんびりと散策が楽しめます。


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